・・・さればとて故郷の平蕪の村落に病躯を持帰るのも厭わしかったと見えて、野州上州の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲の風に漂い、秋葉の空に飄るが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子の大洋傘に色・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・これで可いのである、兼ての覚悟あるべき筈である、私に取っては、世に在る人々の思うが如く、忌わしい物でも、恐ろしい物でも、何でもない。 私が死刑を期待して監獄に居るのは、瀕死の病人が施療院に居るのと同じである、病苦の甚しくないだけ更に楽か・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。あいにくと、世にもまれに見る可憐な少年の写真が、ある日の紙面の一隅に大きく掲げてあっ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・王さまはそれをごらんになって、じぶんもそういうふうに若く美しくなりたいとお思いになり、「では、わしも一度死んで生きかえりたい。」とお言いになりました。 王女は仰せを聞いて、さっそく、死の水を王さまにふりかけて、それから、命の水をかけ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・末弟ひとり、まさにその老博士の如くふるいたって、さらにがくがくの論をつづける。「このごろでは、解析学の始めに集合論を述べる習慣があります。これについても、不審があります。たとえば、絶対収斂の場合、昔は順序に無関係に和が定るという意味に用・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・速記という法を用いてそのまゝに謄写しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語の語のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・この人たちから新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ないほどに実によく似ていた。 橋を渡る頃はまた雨になって河風に傘を取られそうであった。大きな丸太を針金で縛り合せた仮橋が生ま生ましく・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽気でも陰気でもなく、意気でも野暮でもなく、なおまた、若くもなく老けてもいない、そしてばかでも高慢でもない代りに、そう悧巧でも愚図でもないような彼女と同棲しうるときの、寂しい幸福を想像・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・わたくしは例によって原文を次の如く訓み下す。「忍ヶ岡ハ其ノ東北ニ亘リ一山皆桜樹ニシテ、矗々タル松杉ハ翠ヲ交ヘ、不忍池ハ其ノ西南ヲ匝ル。満湖悉ク芙蓉ニシテ々タル楊柳ハ緑ヲ罩ム。雲山烟水実ニ双美ノ地ヲ占メ、雪花風月、優ニ四時ノ勝ヲ鍾ム。是ヲ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・太十は例の如く瞽女の同勢を連れ込んだ。赤は異様な一群を見て忽ちに吠え迫った。瞽女は滑稽な程慌てた。太十は何ということはなく笑った。そうして赤を叱った。赤は甘えて太十に飛びついた。更に又瞽女の一人にも飛びついた。瞽女はきゃっと驚いた。お石は自・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫