・・・こういう妄想を、而も斯ういう長い年月の間、頭脳の裏に入れて置くとは、何という狂気染みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・夜、寝床にもぐってから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくこう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフィテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしているときには、どうであろう。口をついて・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・私は、被害妄想狂では無いのである。決して、ことさらに、僻んで考えているのでは無いのである。事実は、或いは、もっと苛酷な状態であるかも知れない。同じ芸術家仲間に於いてすら、そうである。謂わんや、ふるさとの人々の炉辺では、辻馬の家の末弟は、東京・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」 どっと群衆の間に、歓声が起った。「万歳、王様万歳。」 ひとりの少女が、緋のマン・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にも、わからない。いろいろ思いつくままに、言いました。罪の意識という事に就いても言いました。やが・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・ このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処ともなく消え去った。突然向うの曲り角から愉快な子供の笑い声が起って周圍の粛殺を破った。あたかも老翁の過去の歓喜の声が、ここに一時反響しているかのごとく。・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・空想の翼はさらに自分を駆って人間に共通な舞踊のインスティンクトの起原という事までもこの猫の足踏みによって与えられたヒントの光で解釈されそうな妄想に導くのであった。 赤ん坊の胴を持ってつるし上げると、赤ん坊はその下垂した足のうらを内側に向・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・主観的な意味を求めてみたが、得たものはただ取り止めの付かぬ妄想に過ぎなかった。 しかし、誰か厄年の本当の意味を私に教えてくれる人はないものだろうか。誰かこの影の薄くなった言葉を活かして「四十の惑い」を解いてくれる人はないだろうか。・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・自分がきめてもいいから楽ができなかった時にすぐ機鋒を転じて過去の妄想を忘却し得ればいいが、今のように未来に御願い申しているようではとうていその未来が満足せられずに過去と変じた時にこの過去をさらりと忘れる事はできまい。のみならず報酬を目的に働・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う。だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫