住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いて・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・出発の間際に起る繁雑な事情とその予想とがいつも実行を妨げてしまうのであった。人間も渡鳥のように、時節が来るや否や、わけもなく旧巣を捨てて飛去ることができたなら、いかに幸であったろう。昭和十二年丁丑四月稿・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・うせ無関係な第三者がひとの艶書のぬすみ読みをするときにこっけいの興味が加わらないはずはないわけであるが、書き手が節操上の徳義を負担しないで済むくろうとのような場合には、この興味が他の厳粛な社会的観念に妨げられるおそれがないだけに、読み手はは・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。私がかつて朝日新聞の文芸欄を担任していた頃、・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・それは一面に純なる生きた日本語の発展を妨げたともいい得るであろう。しかし一面には我々の国語の自在性というものを考えることもできる。私は復古癖の人のように、徒らに言語の純粋性を主張して、強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとする・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・が、食事窓がそれを妨げた。足は膝から先が飛び上がっただけで、看守のズボンに微に触れただけだった。 ――何をする。 ――扉を開けろ! ――必要がない。 ――必要を知らせてやろう。 ――覚えてろ! ――忘れろったって忘ら・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・この緩急軽重の判断にあたりては、もっとも心情の偏重によりて妨げらるるものなり。ゆえに今政府の事務を概して尋ぬれば、大となく小となく悉皆急ならざるはなしといえども、逐一その事の性質を詳にするときは、必ず大いに急ならざるものあらん。また、学者が・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・其故如何と尋るに、実際箇々の人に於ては各々自然に備わる特有の形ありて、夫の人の意も之が為に妨げられ遂に全く見われ難きによるなり。故曰、形は偶然のものにして変更常ならず、意は自然のものにして万古易らず。易らざる者は以て当にすべし、常ならざる者・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ 一、現在学生に云いたい事 このごろのように日本の民主化が妨げられ、基本的人権がふみにじられる時代になると「僕らは学生だから」と、正しい批判精神さえすててゆく人がふえます。青春の正義を我からすてたら人生にいつ正義を主張できるでしょう・・・ 宮本百合子 「小倉西高校新聞への回答」
・・・私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫