・・・殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺って歩いた。敵打の初太刀は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」といいながら懐から折木に包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして息気のつまるほど妻の口にあてがっていた。 から風の幾日も吹きぬいた挙句に雲が青空をかき乱しはじめた。霙・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・おれは何よりもその特待生が嫌いなんだ。何日だっけ北海道へ行く時青森から船に乗ったら、船の事務長が知ってる奴だったものだから、三等の切符を持ってるおれを無理矢理に一等室に入れたんだ。室だけならまだ可いが、食事の時間になったらボーイを寄こしてと・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・お通に申残し参らせ候、御身と近藤重隆殿とは許婚に有之候然るに御身は殊の外彼の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女ながらも其由のいい聞け難くて、臨終の際まで黙し候さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」 民子はさすがに女性で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・とうわさをして居たら、半年もたたない中に此の娘は男を嫌い始めて度々里の家にかえるので馴染もうすくなり、そんな風ではととうとう三条半を書いてやる。 まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際ぐらいは格別辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主の玄関で叩頭をして御慶を陳べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの意地ッ張がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・博士は三人の子供が三人共学問が嫌いで、性質が悪くて家出をしたように云っているけれども、これを全く子供の罪に帰する事は出来ぬ。「妻は小学校しか卒業していない女だから、子供を虐める事は出来ない。自分が子供を叱る時には妻は一切口を出さぬ事にしてい・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ しかし、「嫌いやったら、いっしょに歩けしまへん」 と、期待せぬ巧妙な返事にしてやられた。「けったいな言い方やねんなあ。嫌いやのん、それとも好きやの。どっちやの」 好きでもないのに好いてると思われるのは癪で、豹一は返答に・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫