・・・追窮されても窘まぬ源三は、「そりゃあただおいらあ、自由自在になっていたら嬉しいだろうと思ったからそう云ったのさ。浪ちゃんだってあの禽のように自由だったら嬉しいだろうじゃあないか。」と云うと、お浪はまた新に涙ぐんで其言には答えず、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・り場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古不変万世不朽の胸づくし鐘にござる数々の怨みを特に前髪に命じて俊雄の両の膝へ敲きつけお前は野々宮のと勝手馴れぬ俊雄の狼狽えるを、知らぬ知らぬ知りませぬ憂い嬉しいもあなたと限るわたしの心を摩利支天・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・施与ということは妙なもので、施された人も幸福ではあろうが、施した当人の方は尚更心嬉しい。自分は饑えた人を捉えて、説法を聞かせたとも気付かなかった。十銭呉れてやった上に、助言もしてやった。まあ、二つ恵んでやった。と考えて、自分のしたことを二倍・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 枕が大きくて柔かいから嬉しいと言うと、この夏にはうっかりしていたが、あんな枕では頭に悪いからと小母さんがいう。藤さんはこの枕を急いで拵えてから、あだに十日あまりを待ち暮したと話す。 藤さんは小母さんの蒲団の裾を叩いて、それから自分・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ どうやら『文人』の仲間入り出来るようになったのが、そんなに嬉しいのかね。宗匠頭巾をかぶって、『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。』などは、げろが出そうだ。どうやら『先生』と言われるようになったのが、そんなに嬉しいの・・・ 太宰治 「或る忠告」
・・・思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 停留場の駅長が・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・もしかそうだったらどんなに嬉しいだろう。 私は五年生ごろから、こんにゃく売りをしていた。学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。 私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃくを売って、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手して後向きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔い其の袖にしがみつきながら泣いた。「泣蟲ッ、朝腹から何んだ。」と・・・ 永井荷風 「狐」
・・・太十の目には田の畔から垣根から庭からそうして柿の木にまで挂けらえた其稲の収穫を見るより瞽女の姿が幾ら嬉しいか知れないのである。瞽女といえば大抵盲目である。手引といって一人位は目明きも交る。彼らは手引を先に立てて村から村へ田甫を越える。げた裾・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫