・・・「先生、永々の御介抱、甚太夫辱く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床の上に起直って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷いた。すると甚太夫は・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」「我々は、よくよく運のよいものと見えますな。」 二人は、満足そうに、眼で笑い合った。――もしこの時、良雄の後の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・「さよう、とうからこの際には土地はいただかないことにして、金でお願いができますれば結構だと存じていたのでございますが……しかし、なに、これとてもいわばわがままでございますから……御都合もございましょうし……」「とうから」と聞きかえし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」「早速だ、おやおや。」「大分丁寧でございましょう。」「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」「寝ました。」「母は?」「行火で、」と云って、肱を曲げ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・お鳥居より式台へ掛らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。」「ほ、ほう、しんびょう。」 ほくほくと頷いた。「きものも、灰塚の森の中で、古案山子を剥いだでしゅ。」「しんびょう、しんびょう……奇特・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「前略お互いに知れきった思いを今さら話し合う必要もないはずですが、何だかわたしはただおとよさんの手紙を早く見たくてならない、わたしの方からも一刻も早く申し上げたいと存じて筆を持っても、何から書いてよいか順序が立たないのです。 昨夜は・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・さてとや、このほどよりの御はなし、母よりうけたまわり、うれしく存じ候」 てッきり、例の区役所先生に送るのだと分った。「うれしく」とは、一緒になることが定まっているのだろう。もっとも、僕はその人が承知して女優になるのを許せば、それでか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・昔天国の門に立たせて置かれた、あの天使のように、イエスは燃える抜身を手にお持になって、わたくしのいる檻房へ這入ろうとする人をお留なさると存じます。わたくしはこの檻房から、わたくしの逃げ出して来た、元の天国へ帰りたくありません。よしや天使が薔・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼きの色を見せて、溜室の方へと走り行きぬ。定めて朋輩の誰彼に、それと噂の種なるべし。客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく・・・ 川上眉山 「書記官」
この度は貞夫に結構なる御品御贈り下されありがたく存じ候、お約束の写真ようよう昨日でき上がり候間二枚さし上げ申し候、内一枚は上田の姉に御届け下されたく候、ご覧のごとくますます肥え太りてもはや祖父様のお手には荷が少々勝ち過ぎる・・・ 国木田独歩 「初孫」
出典:青空文庫