・・・井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・未ダ幾クナラズシテ官新令ヲ下シ、命ジテ之ヲ徹シ去ル。安政中北里災ニ罹リ一時仮館ヲ此ニ設ク。明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下・・・ 永井荷風 「上野」
・・・この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。その他の石は皆小さく蔦かつらに蔽われていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・それから安政元年に至って更に二百株を補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。しかしこの時にはまだ枕橋には及ばなかった。それは明治七年其角堂永機の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ この游は安政二年乙卯四月六日に家を発し、五日間の旅をして帰ったものである。巻首に「きのとの卯といへるとし、同じ月始の六日」と云ってある。また巻末に添えられた六山寅の七古の狂詩に、「四海安政乙卯年」「袷衣四月毎日楽」「往来五日道中穏」等・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・ついで謙助も昌平黌出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、高橋圭三郎という壻を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のちに須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙六万三千九百石・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・野老は小生の老父で、安政三年すなわち一八五六年生まれ、取って六十九になる。小生は子供の時分この父を尊敬した。年頃になるとしばしば叱られた関係もあって小生の方で反抗心を抱いていたが二十五、六を過ぎてから再び尊敬することを覚えた。思想が古いとか・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫