・・・澁い枳の実は霜の降る度に甘くなって、軈て四十雀のような果敢ない足に踏まれても落ちるようになる。幼いものは竹藪へつけこんでは落ち葉に交って居る不格好な実を拾っては噛むのである。太十も疱瘡に罹るまでは毎日懐へ入れた枳の実を噛んで居た。其頃はすべ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである。首はすでに二返ばかり出したが青いものも何にも見えぬ。右に家が見える。左りに家が見える。向にも家が見える。その上には鉛色の空が一面に胃病やみのように不精・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 私は、実は歩くのが堪えられない苦しみであった。私の左の足は、踝の処で、釘の抜けた蝶番見たいになっていたのだ。「お前は、そんな事を云うから治療費だって貰えないんだぞ。それに俺に食ってかかったって、仕方がないじゃないか、な、ちゃんと嘆・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・第一おれには不気味で出来ねえ。実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うものの、おめえ何か旨い為事があるのなら、おれだって一口乗らねえにも限らねえ。やさしい為事だなあ。ちょいとしゃがめば、ちょ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・曾て東京に一士人あり、頗る西洋の文明を悦び、一切万事改進進歩を気取りながら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・然う云って了えば生優しい事だが、実はあれに就いては人の知らない苦悶をした事がある。 私は当時「正直」の二字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活をしたいという考えを有っていた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もっと大関・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・こうは申しますが、実はあんな夢のような御成功が無くたって、大切なる友よ、わたくしはあなたの事を思わずにはいられませんのでした。御覧なさい。あなたをお呼掛け申しまする、お心安立ての詞を、とうとう紙の上に書いてしまいました。あれを書いてしまいま・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ただその風というものが実は誰かの昔吐いた息であったのだ。僕の息でなければ外の人の息であったのだ。ほんに君と僕とは大分長い間友人と呼び合ったのだ。ははあ、何が友人だ。君が僕と共にしたのは、夜昼とない無意味の対話、同じ人との交際、一人の女を相手・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・これがその時はいくらか句になって居るように思われて、満足はしないが、これに定みょうかとも思うた。実は考えくたびれたのだ。が、思うて見ると、先日の会に月という題があって、考えもしないで「鎌倉や畠の上の月一つ」という句が出来た。素人臭い句ではあ・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・何気なく笑って、その人と談してはいましたが、私はひとりで烈しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んでいって一緒に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一緒につ・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
出典:青空文庫