・・・――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突な質問を受けた事はかつてない。 ところで決して不味くはないから、「ああ、おいしいよ。」 と言ってまた箸を付けた・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・襖があいて実直そうな小柄の四十男が、腰をかがめてはいって来た。木戸で声をからして叫んでいた男である。「君、どうぞ、君、どうぞ。」先生は立って行って、その男の肩に手を掛け、むりやり火燵にはいらせ、「まあ一つ飲み給え。遠慮は要りません。さあ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・無闇に字面を飾り、ことさらに漢字を避けたり、不要の風景の描写をしたり、みだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみ、ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・無闇に字面を飾り、ことさらに漢字を避けたり、不要の風景の描写をしたり、みだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみ、ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、・・・ 太宰治 「芸術ぎらい」
・・・生家では、三年まえに勘蔵という腕のよい実直な職人を捜し当て、すべて店を任せ、どうやら恢復しかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝らしく家事の手伝い、お針の稽古などをはじめた。てるには、弟がひとりあった。てるに似ず、無・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ 私の生れた家は、ご承知のお方もございましょうが、ここから三里はなれた山麓の寒村に在りまして、昔も今も変り無く、まあ小地主で、弟は私と違って実直な男でございますから、自作などもやっていまして、このたびの農地調整とかいう法令の網の目からも・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・じいさんは、木綿の縞の着物を着て、小柄な実直そうな人である。ふしくれだった黒い大きい右手には、先刻の菖蒲の花束を持っている。さては此の、じいさんに差し上げる為に、けさ自転車で走りまわっていたのだな、と佐野君は、ひそかに合点した。「どう?・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか見えなかった。大分禿げ上・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・わたしたち日本の実直な市民として、一生の大部分を家事についやす主婦として、日常の生活に、教育に、読書や娯楽に、どういう文化を求めているかということを、はっきり自分で知らなければならないと思う。そして、求めている文化は、どういう社会生活の上に・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・それとも、殺人とか何とかおそろしい事件で、むじつの村人のいくたりかが、ひどい目にあったということでもあって、それにこりたその村人は、自分たちは正直な働きてであり、実直な農民であることの証明に、指紋をとることを思いついたのだろうか。いずれにせ・・・ 宮本百合子 「指紋」
出典:青空文庫