・・・しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を睨みつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後にばかり引かれました。幾度も妹のいる方へ泳いで・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎として動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持がする。無論ある程度まで自分を英雄だと感じているのである。奥さんのような、かよわい女のためには、こんな態度の人・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ それがまた思うばかりではなかった。実際、其処に踞んだ、胸の幅、唯、一尺ばかりの間を、故とらしく泳ぎ廻って、これ見よがしの、ぬっぺらぼう! 憎い気がする。 と膝を割って衝と手を突ッ込む、と水がさらさらと腕に搦んで、一来法師、さし・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・そりゃあまり平凡じゃと君はいうかもしれねど、実際そうなのだからしかたがない。年なお若い君が妻などに頓着なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互いに解しがたいことであるらしい。 貧乏人の子だくさん・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・僕も一杯かさねてから、「実際離縁したのか?」「いや」と、友人は少し笑いを含みながら、「その手つづきは後でしてやると親類の人達がなだめて、万歳の見送りをしたんやそうや。もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」「気違いになった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 就中、社員が度々不平を鳴らし、かつ実際に困らせられたのは沼南の編輯方針が常にグラグラして朝令暮改少しも一定しない事だった。例えば甲の社員の提言を容れて直ぐ実行してくれと命じたものを乙の社員の意見でクルリと飜えして肝腎の提言者に通告もし・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・今日のような学校にてはどこの学校にても、Mission School を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない。それゆえ学校事業は独立事業としてはずいぶん難い事業であります。しかしながら文学・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・大衆といい、民衆といい、抽象的に、いかように人間を考えらるゝことはあっても、実際に於ける、大衆の生活、民衆の生活は、全く個別的のものであった。 どこに行っても、人間は、みな自分と同じように、たえず、何ものかを求めている。そして、苦しんで・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
出典:青空文庫