・・・一昨日の晩宵の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯が見えたのを、海浜の別荘で花火を焚くのだといい、否、狐火だともいった。その時は濡れたような真黒な暗夜だったから、その灯で松の葉もすらすらと透通るように青く見えたが、今は、恰も曇った一面の銀・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました晩、小宮山は夷屋と云う本町の旅籠屋に泊りました、宵の口は何事も無かったのでありまするが、真夜中にふと同じ衾にお雪の寝ているのを、歴々と見ましたので、喫驚する途端に、寝姿が向むきになった・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・まだ宵の口と思うのに、水の音と牛の鳴く声の外には、あまり人の騒ぎも聞えない。寥々として寒そうな水が漲っている。助け舟を呼んだ人は助けられたかいなかも判らぬ。鉄橋を引返してくると、牛の声は幽かになった。壮快な水の音がほとんど夜を支配して鳴って・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通って帰って来ました。私の処へ寄って本を借りて帰るというのです。ついでに七葉樹の花を見ると云います。この友一人がそれを見はぐしていたからです。 道々私は唱いにくい音諧を大声で歌ってその友人にきかせま・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 夕方から零ち出した雪が暖地には稀らしくしんしんと降って、もう宵の口では無い今もまだ断れ際にはなりながらはらはらと降っている。片側は広く開けて野菜圃でも続いているのか、其間に折々小さい茅屋が点在している。他の片側は立派な丈の高い塀つづき・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・まだ宵の口から、家の周囲はひっそりとしてきて、坂の下を通る人の足音もすくない。都会に住むとも思えないほどの静かさだ。気の早い次郎は出発の時を待ちかねて、住み慣れた家の周囲を一回りして帰って来たくらいだ。「行ってまいります。」 茶の間・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「なんだ、誰も歌ってやしないじゃないか。もう一ぺん。アイン、ツワイ、ドライ!」と叫んだ時に、「おい、おい。」と背後から肩を叩かれた。振り向いて見ると、警官である。「宵の口から、そんなに騒いで歩いては、悪いじゃないか。君は、どこの学生だ。・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ウンター・デン・リンデンを歩いている女と、タウエンチーン街を歩いている男と、ホワイトハウスの玄関をはぎ合わせたりするような事はそもそも宵の口のことであって、もっともっと美しい深い内容的のモンタージュはいかなる連句のいかなる所にも見いだされる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・蝙蝠の出さかるのは宵の口で、おそくなるに従って一つ減り二つ減りどことなく消えるようにいなくなってしまう。すると子供らも散り散りに帰って行く。あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。いつか塒に迷うた蝙蝠・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・いくら心配しても、それだけの時間は、飛躍を許さないので、道太は朝まではどうかして工合よく眠ろうと思って、寝る用意にかかったが、まだ宵の口なので、ボーイは容易に仕度をしてくれそうになかった。 道太は少しずつ落ち著いてくると同時に、気持がく・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫