・・・ 私が曾て、逗子に居た時分その魔がさしたと云う事について、こう云う事がある、丁度秋の中旬だった、当時田舎屋を借りて、家内と婢女と三人で居たが、家主はつい裏の農夫であった。或晩私は背戸の据風呂から上って、椽側を通って、直ぐ傍の茶の間に居る・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ と家主のお妾が、次の室を台所へ通がかりに笑って行くと、お千さんが俯向いて、莞爾して、「余り色気がなさ過ぎるわ。」「そこが御婦人の毒でげす。」 と甘谷は前掛をポンポンと敲いて、「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
一 貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極なり。家主は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家にあらざれば、昼も一枚蔀をおろして、ここは使わず・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・右隣りの畠を隔てて家主の茅屋根が見られた。 雪庇いの筵やら菰やらが汚ならしく家のまわりにぶら下って、刈りこまない粗葺きの茅屋根は朽って凹凸になっている。「……これかい、ずいぶんひどい家だねえ」 耕吉は思わず眼を瞠って言った。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・大西は、郷里のおふくろと、姉が、家主に追立てを喰っている話をくりかえした。「俺れが満洲へ来とったって、俺れの一家を助けるどころか家賃を払わなきゃ、住むこたならねえと云ってるんだ。×のためだなんてぬかしやがって、支那を×ることや、ロシアを・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・僕は青扇の家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうがいろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四五日のあいだは知らぬふりをしていた。 ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・私たちは、やっと、東京の三鷹村に、建築最中の小さい家を見つけることができて、それの完成ししだい、一か月二十四円で貸してもらえるように、家主と契約の証書交して、そろそろ移転の仕度をはじめた。家ができ上ると、家主から速達で通知が来ることになって・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植えかえる季節は梅雨時に限るとか、蟻を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。私たちより四十も多く夏に逢い、四十回も多く花見を・・・ 太宰治 「もの思う葦」
出典:青空文庫