・・・往来の真中に立ち留って、首を延してこの白い者をすかしているうちに、白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる。半分と立たぬ間に余の右側を掠めるごとく過ぎ去ったのを見ると――蜜柑箱のようなものに白い巾をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を通して前後・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 鼻の先から出る黒煙りは鼠色の円柱の各部が絶間なく蠕動を起しつつあるごとく、むくむくと捲き上がって、半空から大気の裡に溶け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然として、首の消えた方角を見つめている。 しばらく・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・今の人から見れば、完全かも知れないが実際あるかないか分らない理想的人物を描いて、それらの偶像に向って瞬間の絶間なく努力し感激し、発憤し、また随喜し渇仰して、そうして社会からは徳義上の弱点に対して微塵の容赦もなく厳重に取扱われて、よく人が辛抱・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・その辺はあらかじめ御容赦を願います。 まずこれからそろそろやり始めます。やり始めますよと断ると何だかえらそうに聞えるが、その実は何でもない。ここに三四頁ばかり書いたノートがあります。これから御話をする事はこの三四頁の内容に過ぎんのであり・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ けれども、コレラは容赦をしなかった。 水火夫室から、倉庫へ下りる事は、負って下りると云う方法で行われた。 倉庫から、ピークへは、「勝手に下りて貰う」より外に方法が無かった。 十五呎を、第一番に、死体が「勝手に」飛び下りた。・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・のしきたりから云えば十分にわがままに暮しているはずの伸子がなぜその上そのように身もだえし、泣き、そこは自分の生きられるところでないと苦しむのか、ほとんど諒解に苦しんでいるあいてを伸子として避けられない容赦なさで傷けながら、その人をそのように・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第六巻)」
・・・オスタップ・ベンデル自身の山師としての社会的存在の意義も、彼の哀れな失敗そのもので容赦なく批判されているのである。 だんだんこの小説を読んで行って、大変面白く思われるのは、ロシアが生んだ世界的な諷刺作家ゴーゴリの作品の世界と、この「黄金・・・ 宮本百合子 「音楽の民族性と諷刺」
・・・それにつれて、目の前の宙で何か透き徹って小さいものが実に容赦なくキュッキュッと廻って止った、という感じがする。透明なものは生と死で、切迫した時間のうちにキリキリといくつか廻り、生がこっち向いてぴたッと停った、そんな感じだ。これは異様な、愕き・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・生活の安定を見出そうとして階級として努力するその過程にうけている容赦ない政治的な経験などによって、わたしたちの、人民としての階級的なヒューマニティーはますます鋭くさせられている。近代社会で、資本に支配される権力からヒューマニティーが失われて・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・女の心のすみずみから虚偽と悪徳とを掘り出し、それを容赦のない解剖刀で切り開いて見せる。私は熱して、力を集注して、それをやっていた。傷ついた女の誇り心の反撥が私をますます刺激した。女が最後の武器として無感動を装うのを、さらに摘発し覆さなければ・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫