・・・その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦荻・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 甲府まで乗り、富士見まで乗って行くうちに、私たちは山の上に残っている激しい冬を感じて来た。下諏訪の宿へ行って日が暮れた時は、私は連れのために真綿を取り寄せて着せ、またあくる日の旅を続けようと思うほど寒かった。――それを嫂にも着せ、姪に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ がやがや、うしろの青年少女の一団が、立ち上って下車の仕度をはじめ、富士見駅で降りてしまった。笠井さんは、少し、ほっとした。やはり、なんだか、気取っていたのである。笠井さんは、そんなに有名な作家では無いけれども、それでも、誰か見ている、・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・その夜唖々子が運出した『通鑑綱目』五十幾巻は、わたしも共に手伝って、富士見町の大通から左へと一番町へ曲る角から二、三軒目に、篠田という軒燈を出した質屋の店先へかつぎ込まれた。 わたしがこの質屋の顧客となった来歴は家へ出入する車屋の女房に・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・去年、重治さん夫婦は富士見の高原へゆき、健坊たちは千葉の海岸へ行ったが、今年はどこもまだ釘づけです。資金思わしからずでね。 島田へは椅子をお送り申しました。お気に入って東京からよこしたといってはお見せになっている由。私も大変うれしい。そ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円騙った男を追跡し、それをとりかえしたという逸話さえある。しかしながら、遽しく船出して見れば、境遇上故郷に走せる思いはおのず・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫