・・・に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。 たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登った時であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなこと・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」 と俯向いて探って、鉄縁の時計を見た。「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。…… 令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。 駅員に御話し・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・国道沿いながら大きな山の蔭になっていて、戸数の百もあろうかというまったくの寒村であった。 かなり長い急な山裾の切通し坂をぐるりと廻って上りきった突端に、その耕吉には恰好だという空家が、ちょこなんと建っていた。西向きの家の前は往来を隔てた・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵で、養蚕などもしていた。冬になると家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。芋は百姓の半分常食になっていた。その時はまだ勝子も小さかった。近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・麓の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・ してみると、いまから三十年ちかく前に、日本の本州の北端の寒村の一童児にまで浸潤していた思想と、いまのこの昭和二十一年の新聞雑誌に於いて称えられている「新思想」と、あまり違っていないのではないかと思われる。一種のあほらしい感じ、とはこれ・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・ 私の生れた家は、ご承知のお方もございましょうが、ここから三里はなれた山麓の寒村に在りまして、昔も今も変り無く、まあ小地主で、弟は私と違って実直な男でございますから、自作などもやっていまして、このたびの農地調整とかいう法令の網の目からも・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・ その会話に依って私は、男は帰還の航空兵である事、そうしてたったいま帰還して、昨夜この港町に着いて、彼の故郷はこの港町から三里ほど歩いて行かなければならぬ寒村であるから、ここで一休みして、夜が明けたらすぐに故郷の生家に向って出発するとい・・・ 太宰治 「母」
・・・どんな寒村でも、寺の塔だけは高くそびえているのであった。 二時ごろミラノ着。ホテル・デュ・パルクに泊まる。子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった。伽藍を見物に行く。案内のじいさんを三リラで雇ったが、早口のドイツ語はよく聞き取れなかった・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・私は北国の一寒村に生れた。子供の時は村の小学校に通うて、父母の膝下で砂原の松林の中を遊び暮した。十三、四歳の時、小姉に連れられて金沢に出て、師範学校に入った。村では小学校の先生程の学者はない、私は先生の学校に入ったのである。然るに幸か不幸か・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫