・・・ね、祖母が、孫と君の世話をして、この寒空に水仕事だ。 因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。 ――その姉と言うのが、次室の長火鉢の処に来ている。―― 九 そこへ、祖母が帰・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・まだ年もゆかないのに、そして、こんな寒空なのに、身には汚れた薄い着物を着て、どんなに寒かろうと思いました。おみよは乞食の子より二つ三つ年上であったのです。 乞食の子は、いま、お嬢さんがどこへかいかれて、見えなくなったこのまに、ちょっとそ・・・ 小川未明 「なくなった人形」
・・・だが、この寒空にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」と空を指さしまして、「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますか・・・ 小山内薫 「梨の実」
一 ざまあ見ろ。 可哀相に到頭落ちぶれてしまったね。報いが来たんだよ。良い気味だ。 この寒空に縮の単衣をそれも念入りに二枚も着込んで、……二円貸してくれ。見れば、お前じゃないか。……声まで顫えて・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・口髭の先に水洟が光って、埃も溜っているのは、寒空の十町を歩いて来たせい許りではなかろう。「先日聴いた話ですが」と語りだした話も教師らしい生硬な語り方で、声もポソポソと不景気だった。「……壕舎ばかりの隣組が七軒、一軒当り二千円宛出し合・・・ 織田作之助 「世相」
・・・部屋にはいると、赤い友禅模様の蒲団を掛けた炬燵が置いてあり、風呂もすぐにはいれ、寒空を歩いてきた安子にはその温さがそのまま折井の温さかと見えて、もういやな奴ではなかった。 いざという時には突き飛ばしてやる気で随いてきたのだが、抱かれると・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・彼女は八つになるのだが、私はその時分も冬の寒空を当もなく都会を彷徨していた時代だったが、発表する当のない「雪おんな」という短篇を書いた時ちょうど郷里で彼女が生れたので、私は雪子と名をつけてやった娘だった。私にはずいぶん気に入りの子なのだが、・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・私ども夫婦ばかりでなく、あの人に見込まれて、すってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。げんにあの秋ちゃんなど、大谷さんと知合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も着物も無くしてしまうし、いまはもう長・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・それには寒空に無帽の着流し、足駄ばき、あごの不精ひげに背の子等は必要で有効な道具立てでなければならない。 そう考えて来ると、第一この男が丸の内仲通りを歩いていて、しかもそこで亀井戸への道を聞くということが少し解しにくいことに思われて来る・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・戦地の寒空の塹壕の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度に・・・ 寺田寅彦 「千人針」
出典:青空文庫