・・・ ところが寛文七年の春、家中の武芸の仕合があった時、彼は表芸の槍術で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守綱利自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望した。甚太夫は竹刀・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・江戸へ上ったのは宗房が二十九歳の寛文十二年であった。釣月軒として一人前の宗匠であったろう。青年宗匠として彼の才分は、もし生計を打算したら大阪で生活しても行けるだけのものであったろうのに、宗房釣月軒はどんな心持から江戸へ目を向けたのだろうか。・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・宗春と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・しかし同時にそれを万治寛文の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年から推せば、三回忌は慶安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。興津が長崎に往ったのは、いつだか分からない。しかし初音の香を二・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫