・・・それから寝台を離れて顔を洗う台の前へ立った。これから御化粧が始まるのだ。西洋へ来ると猫が顔を洗うように簡単に行かんのでまことに面倒である。瓶の水をジャーと金盥の中へあけてその中へ手を入れたがああしまった顔を洗う前に毎朝カルルス塩を飲まなけれ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・深谷が寝台から下りてスリッパを履いて、便所に行くらしく出て行った。 安岡の眼は冴えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。 ――人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がおれの寝息をう・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 赤石山の、てっぺんへ、寝台へ寝たまま持ち上げられた、胃袋の形をしたフェットがあった。 時代は賑かであった。新聞は眩しいほど、それ等の事を並べたてた。 それは、富士山の頂上を、ケシ飛んで行く雲の行き来であった。 麓の方、巷や・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「寝台附の車というのはこれだな。こんな風に寐たり起きたりしておれば汽車の旅も楽なもんだ。この辺の両側の眺望はちっとも昔と変らないヨ。こんな煉瓦もあったヨ。こんな庭もあったヨ。松が四、五本よろよろとして一面に木賊が植えてある、爰処だ爰・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台の上でひるねのさかりで、烏の夢を見ていたもんだ。あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向うを見た。林のような象だろう。汽車より早くやってくる。さあ、まるっ・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・いいけれども、寝ているうちに、野火にやかれちゃ一言もない。よしよし、この石へ寝よう。まるでね台だ。ふんふん、実に柔らかだ。いい寝台だぞ。」その石は実際柔らかで、又敷布のように白かった。そのかわり又大学士が、腕をのばして背嚢を・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・上の寝台から下りて来ながら、 ――いやに寒いな! いかにも寒そうな声で云った。 ――まだ早いからよ、寝もたりないしね。 いくらか亢奮もしているのだ。車室には電燈がつけてある。外をのぞいたら、日の出まえの暗さだ、星が見えた。遠・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・硝子の器を載せた春慶塗の卓や、白いシイツを掩うた診察用の寝台が、この柱と異様なコントラストをなしていた。 この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚のような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・彼は高価な寝台の彫刻に腹を当てて、打ちひしがれた獅子のように腹這いながら、奇怪な哄笑を洩すのだ。「余はナポレオン・ボナパルトだ。余は何者をも恐れぬぞ、余はナポレオン・ボナパルトだ」 こうしてボナパルトの知られざる夜はいつも長く明けて・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・家具は、部屋の隅に煖炉が一つ据えてあって、その側に寝台があるばかりである。「心持の好さそうな住まいだね。」「ええ。」「冬になってからは、誰が煮炊をするのだね。」「わたしが自分で遣ります。」こう云って、エルリングは左の方を指さ・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫