・・・何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造の寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――」 婆さんがかれこれ一年の後、私の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。 六 この小犬に悩まさ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・彼女の眼にはアグネスの寝顔が吸付くように可憐に映った。クララは静かに寝床に近よって、自分の臥ていた跡に堂母から持帰った月桂樹の枝を敷いて、その上に聖像を置き、そのまわりを花で飾った。そしてもう一度聖像に祈祷を捧げた。「御心ならば、主よ、・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・が、ものの三月と経たぬ中にこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡の円髷に、蝋燭を突刺して、じりじりと燃して火傷をさした、それから発狂した。 但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗の変な手つき・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄の釜で煮られた・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ わが子の寝顔につくづく見いっていると、自分はどうしてもこの子が呼吸してるように思われてならない。胸に覆うてある単物のある点がいくらか動いておって、それが呼吸のために動くように思われてならぬ。親戚の妻女が二つになる子どもをつれてきて、そ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 死んだような寝顔だったが、獣のような鼾だった。 ところが、半時間ばかりたつと、武田さんははっと眼を覚して、きょとんとしていたが、やがて何思ったのか、白紙のままの原稿用紙を二十枚ばかり封筒に入れると、「さア、行こう」 と、起・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・そんな風にして眠ってしまったあの人の寝顔を見ていると、私は急にあてどもない嫉妬を感じた。あの人は私のもの、私だけのものだ。私は妊娠しているのです。 私は生れて来る子供のためにもあの人に偉くなって貰わねばと思い、以前よりまして声をはげまし・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 更に垢ぬけているといえば、その寝顔は、ぞっと寒気がするくらいの美少年である。 胸を病む少女のように、色が青白くまつ毛が長く、ほっそりと頬が痩せている。 いわば紅顔可憐だが、しかしやがて眼を覚まして、きっとあたりを見廻した眼は、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・人が庭のたき火も今夜をかぎりなれば残り惜しく二人は語り、さて帰るさ、庭の主人に一語の礼なくてあるべからずと、打ち連れて詩人の室に入れば、浮世のほかなる尊き顔の色のわかわかしく、罪なき眠りに入れる詩人が寝顔を二人はしばし見とれぬ。枕辺近く取り・・・ 国木田独歩 「星」
・・・小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼が重くなる。 千鳥の話は一と夜明ける。 自分は中二階で長い手紙を書いている。藤さんが、「兄さん」と言ってはいってくる。「あのただ今船頭が行李を持ってまいりましたよ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫