・・・ こゝ半年ばかり、健二は、親爺と二人で豚飼いばかりに専心していた。荷車で餌を買いに行ったり、小屋の掃除をしたり、交尾期が来ると、掛け合わして仔豚を作ることを考えたり、毎日、そんなことで日を暮した。おかげで彼の身体にまで豚の臭いがしみこん・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 三人が百姓に専心して、その収穫が、どうしても、利子に追いつかなかった。このまゝで行けば、買った土地を、又、より安くで売り払って、借金をかえさなければならなくなるのはきまりきっていた。 もっと利子の安い勧業銀行へ人を頼んであたってみ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・去勢されたような男にでもなれば僕は始めて一切の感覚的快楽をさけて、闘争への財政的扶助に専心できるのだ、と考えて、三日ばかり続けてP市の病院に通い、その伝染病舎の傍の泥溝の水を掬って飲んだものだそうだ。けれどもちょっと下痢をしただけで失敗さ、・・・ 太宰治 「葉」
・・・昔は将棋を試みた事もあり、また筆者などと一緒に昔の本郷座で川上、高田一座の芝居を見たこともありはしたが、中年以後から、あらゆる娯楽道楽を放棄して専心ただ学問にのみ没頭した。人には無闇に本を読んでも駄目だと云ってはいたが、実によく読書し、また・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・しかし私の知れる範囲内では、蓄音機レコードの製造工場へ聘せられて専心その改良に没頭している理学士は一人もないようである。もっともこれは別に蓄音機のみに関した事ではない。当然専門の理学士によってのみ初めてできうべき器械類が、そういう人の手によ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ 転ぶまい、車にぶつかるまい、帽子を飛ばすまい、栄蔵の体全体の注意は、四肢に分たれて、何を考える余裕もなく、只歩くと云う事ばかりを専心にして居た。 肩や帽子に、白く砂をためて家に帰りつくと、手の切れる様な水で、パシャパシャと顔や手足・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 私は幼い時分から、本を読むことや、ものを書くことが好きだったので、今のように専心文学をやることになった初めも、いつの間にか自分の好きな道へ進んできたというだけのことで、一度志を立てて、などいうことは少しもないのです。ですから、どういう・・・ 宮本百合子 「十年の思い出」
・・・ 彼女は専心に働いたのです。 けれ共今朝になって見ると彼女は何だか変な気持になりました。 踵の痛いのは立ち続けた故だと分りました。 頭のさっぱりしないのは余り明くない病室の燈で多くの注意を病児に向けながらも尚一生懸命に上杉博・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・ それ等の涙の種を忘れ得る専心の仕事を得られないものであろうか。 斯う思うにつけ、知人の一人でまだ若い人が自分の病苦を未知な子孫に与えるのに忍びないと云って、孤独の一生を送る決心をして居るのを尊まずには居られない。 真に幸福な事・・・ 宮本百合子 「ひととき」
・・・そう焦慮して、作者は「思い切って職を抛擲し、専心文学に精進しようと思い立った。」 だが、二三ヵ月で、その生活は経済的にゆきづまって以来、作者は、S女史という婦人作家の助手をやり、聾唖学校の教師になり、紡績工場の世話係、封筒かき、孤児院の・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
出典:青空文庫