・・・また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・あれは全く尋常小学を出てから、浪花節を聴いたり、蜜豆を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑かなカッフェを去っ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意識して、生きた目で、自分達を見ている、生きた、尋常の人間一匹を殺すことが出来よう。そんな事は全然不可能ではないか。 こう思って見ていると、今一秒時間の後に、何か非常な・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 娘が、柔順に尋常に会釈して、「誰方?……」 と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、「何か、用か。」と喚いた。「失礼!」 と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ ――既に、廓の芸妓三人が、あるまじき、その夜、その怪しき仮装をして内証で練った、というのが、尋常ごとではない。 十日を措かず、町内の娘が一人、白昼、素裸になって格子から抜けて出た。門から手招きする杢若の、あの、宝玉の錦が欲しいので・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・興味の尋常でないは言うも愚な次第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。 民子は笑いながら、「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・なつかしいという形のない心は、お互いのことばによって疎通せらるる場合が多いが、それは尋常の場合に属することであろう。 今省作とおとよとは逢っても口をきかない。お千代が前にいるからというわけでもなく、お互いにすねてるわけでもない。物を言わ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・けさ見た素顔やなりふりとは違って、尋常な芸者に出来あがっている。「けさほどは失礼致しました」と、しとやかながら冷かすように手をついた。「僕こそお礼を言いに来たのかも知れません」「かも知れませんでは、お礼になりますまい!」「い・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も下画を描いたので、死後の筐底に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。 椿岳が第一回・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたので、咄嗟に浜子の小言を覚悟して、おそるおそる上ると、いい按配に浜子の姿は見えず、父が長火鉢の前に鉛のように坐って、泣いている新次をぼんやりながめながら、煙草を吹か・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫