・・・彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日も放ったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。Full soon thy soul shall have her earthly frei・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・水稼業の女性はいかに美しく、磨きあげられていても、尋常なレディに及ぶものではない。比較的に見るとき、レディにはそのナイーヴさ、素純さ、処女性の新鮮さにおいて、玄人にはとうてい見出されない肌ざわりがあるのだ。「良家の娘」という語は平凡なひびき・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・「うらア始めから、尋常を上ったら、もうそれより上へはやらん云うのに、お前が無理にやるせにこんなことになったんじゃ。どうもこうもならん!」 それは二月の半ば頃だった。谷間を吹きおろしてくる嵐は寒かった。薪を節約して、囲爐裏も焚かずに夜・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・――これが極く尋常なような調子で。 高瀬は歎息して奥へ行った。お島が茶を入れて夫の側へ来た時は、彼は独り勉強部屋に坐っていた――何事もせずに唯、坐っていた。「なんだか俺は心細く成って来た。仕方が無いから、こうして坐って見てるんだ」・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・服装正しく、挨拶も尋常で、気弱い笑顔は魅力的であります。散髪を怠らず、学問ありげな、れいの虚無的なるぶらりぶらりの歩き方をも体得して居た筈でありますし、それに何よりも泥酔する程に酒を飲まぬのが、決定的にこの男を上品な紳士の部類に編入させてい・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・この映画の中に現われている限りの出来事と達引とはおそらくパリという都ができて以来今日に至るまでほとんど毎日のようにどこかの裏町どこかの路地で行なわれている尋常茶飯のバナールな出来事に過ぎないであろう。それほどに平凡な月並み、日並み、夜並みの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないような気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井。」側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」と勒されていた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・けれども全面が平たく尋常にでき上がっているせいか、どことさして、ここが道楽くさいという点もまたまるで見当たらなかった。自分は妻といろいろ話した末、こう言った。「まあたいていよかろうじゃないか。道楽のほうは受け合いますと言っといでよ」・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫