・・・俺は今日午休み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走りに梯子段を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭に向うからも、小走りに美津が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱した。「御免下さいまし。」 結いたての髪をにおわせた美津は、極り悪そうにこう・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ですから泰さんは遅れ勝ちで、始終小走りに追いついては、さも気忙しそうに汗を拭いていましたが、その内にとうとうあきらめたのでしょう。新蔵を先へ立たせたまま、自分は後から蛇の目の傘を下げて、時々友だちの後姿を気の毒そうに眺めながら、ぶらぶら歩い・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そしてもう一度なんとかして自分の失敗を彌縫する試みでもしようと思ったのか、小走りに車の手前まで駈けて来て、そこに黙ったまま立ち停った。そしてきょろきょろとほかの子供たちを見やってから、当惑し切ったように瓶の積み重なりを顧みた。取って返しはし・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」 と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。「頓生菩提。……小川へ流すか、燃しますべい。」 そういって久・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・虫籠を持たされた児は、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随いてゆく。物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。 またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・翁は小走りに足跡向きし方へと馳せぬ。 下 源叔父が紀州をその家に引取りたりということ知れわたり、伝えききし人初めは真とせず次に呆れ終は笑わぬものなかりき。この二人が差向いにて夕餉につく様こそ見たけれなど滑稽芝居見まほ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・火を目がけて小走りに歩むその足音重し。 嗄れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・青年の目と少女の目と空に合いし時、少女はさとその面を赤らめ、しばしはためらいしが急に立ちあがりかの大皿のみを左手に持ちて道にのぼり、小走りに駆け入りしは騎馬隊の兵士が常に集まりて酒飲むこの街唯一の旗亭なり。少女は軒下にて足を停め、今一度青年・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いている。小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積んでいる。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫