・・・椿岳の泥画 椿岳の泥画というは絵馬や一文人形を彩色するに用ゆる下等絵具の紅殻、黄土、丹、群青、胡粉、緑青等に少量の墨を交ぜて描いた画である。そればかりでなく泥面子や古煉瓦の破片を砕いて溶かして絵具とし、枯木の枝を折って筆とした事もあ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟があるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃けちくさい男だのに新聞広告で見た高価・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・大学でつめこんだ少量の経済学も忘れてしまいました。勉強のできなくなる事、前から余り好きませんが、一層ひどいです。ぼくは東京で文学で生活するか、さもなければ死ぬか。例えば鏡花氏が紅葉山人の書生であったような形式をとるか、ドストエフスキイ式に水・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ときには、家に酒が在ると便利だと思わぬこともないが、どうも、家に酒を置くと気がかりで、そんなに呑みたくもないのに、ただ、台所から酒を追放したい気持から、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまうばかりで、常住、少量の酒を家に備えて、機に臨んで、ちょっ・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・その犬の蚤を発見した夜、ただちに家内をして牛肉の大片を買いに走らせ、私は、薬屋に行きある種の薬品を少量、買い求めた。これで用意はできた。家内は少なからず興奮していた。私たち鬼夫婦は、その夜、鳩首して小声で相談した。 翌る朝、四時に私は起・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・ 料理は、おなかに一杯になればいいというものでは無いということは、先月も言ったように思うけれども、さらに、料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・それを飲みやすくするために医者はこれに少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった。粉にしたコーヒーをさらし木綿の小袋にほんのひとつまみちょっぴり入れたのを熱い牛乳の中に浸して、漢方の風邪薬のように振り出し絞り出すのである。とにかくこの生まれ・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・すると家々ではかねて玄関かその次の間に用意してある糯米やうるちやあずきや切り餅を少量ずつめいめいの持っている袋に入れてやる。みんなありがとうともなんとも言わずにそれをもらって次の家へと回って行くのである。 平生は行ったこともない敷居の高・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・一電子の有する電気以下の少量の電気はどこにも得る事が出来ぬ。あらゆる電気はこの微粒の整数倍であるという事になった。それで電気を盗むのはこの電子の莫大な粒数を盗むのである。そこでその電子は物質かエネルギーか。 電子は質量を有するように見え・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
・・・悲壮という複雑な人間的感情の集約的表現は、ちょっとという小量を示す形容詞によって、軽佻化され、なおざりのものとされ、読者は作者の浮腰を感じるのである。このような例は、この部分一ヵ所ではない。「幼き合唱」は濫費されている字数にかかわらず何・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
出典:青空文庫