・・・殊にあの時の笑い声は――彼は小首を傾けた三重子の笑い声を思い出した。 二時四十分。 二時四十五分。 三時。 三時五分。 三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気のない爬虫類・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目つかなかった・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・と若衆は小首を傾げたが、思い出したように盤台をゴシゴシ。 十分ばかりもゴシゴシやったと思うと、またもや、「三公」「三公三公って一々呼ばなくても、三公はここにいるよ」「お上さんのとこへ、この節郵便が来やしねえか?」「郵便はしょ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・と横井は小首を傾げて急に真面目な調子になり「併し、そりゃ君、つまらんじゃないか。そんな処に長居するもんじゃないよ。気持を悪くするばかしで、結局君の不利益じゃないか。そりゃ先方の云う通り、今日中に引払ったらいゝだろうね」「出来れば無論今日・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・記憶のいい上田も小首を傾けて、「そうサ、何を読んでいたかしらん、まさかまるきり遊んでもいなかったろうが」と考えていましたが、「机に向いていた事はよく見たが、何を専門にやっていたか、どうも思いつかれぬ、窪田君、覚えているかい」と問われ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・』豊吉はちょっと籠の中を見たばかりで、少年の顔をじっと見ながら『なるほど、なるほど』といって小首を傾けた。 少年は『大きいだろう!』と鋭く言い放ってひったくるように籠を取って、水の中に突き込んだ。そして水の底をじっと見て、もう傍らに人あ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・『彼人がどうしてまた東京に来たろう、』自分は自分の直覚を疑ってはまた確かめてその後、ある友人にもかれのことを話して見たが、友は小首を傾けたばかりであった。その後二週間ほどたって、自分は用談の客と三時間ばかり相談をつづけ、客が帰ったあとで、や・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほど変な味がするらしく小首を傾けながら怪訝な顔をして飲んでいた。そうして、そのあとでやっぱり日本酒の方・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・と聞いてみると、大概の人はちょっと小首をかしげて考え込んでしまう。実物を出して見ると、六時の所はちょうど秒針のダイアルになっているのである。 こういう認識不足の場合はいいが、認識錯誤の場合にはいろいろの難儀な結果が生じる。盗難や詐欺にか・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序にこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔が癪にさ・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
出典:青空文庫