・・・喜三郎は気を揉んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭を振って、許す気色も見せなかった。 やがて寺の門の空には、這い塞った雲の間に、疎な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気がさしそうでなりません。」 内蔵助は微笑した。この正月の元旦に、富森助右衛門が、三杯の屠蘇に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。句・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 自白した罪人はここに居ります。遁も隠れもしませんから、憚りながら、御萱堂とお見受け申します年配の御婦人は、私の前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背を抱く御介抱が願いたい。」 一室は悉く目を注いだ、が、淑女・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空の中に漲った大鳥を御覧――お傍に居りました私にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭は私の簪に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。 十月十六日政夫民子様 学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲笑かの様に聞か・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・当り前の頭があって、相当に動いて居りさえすれば、君時代に後れるなどいうことがあるもんじゃないさ。露骨に云って終えば、時代におくれやしないかなどいう考えは、時代の中心から離れて居る人の考えに過ぎないのだろうよ」 腹の奥底に燃えて居った不平・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・が、柳吉は「お前は家に居りイな。いま一緒に行ったら都合が悪い」蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知ら・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・うどんは一寸位に切って居りました。 食事は普通人程の分量は頂きました。お医者様が「偉いナー私より多いがナー」と言われる位で有りました。二十日ばかり心臓を冷やしている間、仕方が無い程気分の悪い日と、また少し気分のよい日もあって、それが次第・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・彼には清三がいろ/\むずかしいことを知って居り、難解な外国の本が読めるのが、丁度自分にそれだけの能力が出来たかのように嬉しいのだった。そして、ひまがあると清三のそばへ寄って行って話しかけた。「独逸語。」「……独逸語のうちでもこれは大・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫