・・・ しかし、そうは云うものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈従を意としていない。風雪の一日を、客舎の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向って、こんな事を云った。「辛抱しろよ。己だって、腹がへ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・いやな男への屈従からは忽ち間夫という秘密の快楽を覚えた。多くの人の玩弄物になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫蕩の生涯の、その果がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深川の湿地に生れて吉原の水に育ったので・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」「なあに構わんさ」「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半されるんだから、愚の極だ」「しかし僕の御・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従を強いざる限りは、この問題はこれより以上に纏まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事・・・ 夏目漱石 「博士問題の成行」
・・・今日のところでは、わたくしは主人に屈従している賄方のようなものでございます。そう云う身の上は余り幸福ではございませんわね。それでもわたくしは主人が渡世上手で、家業に勉強して、わたくし一人を守っていてくれるのをせめてもの慰めにいたしていました・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・と、なるたけ遠のいて自分を権力に屈従させたおびただしい人々が、こんにちどれほど特別にいい生活をしているでしょう。 多くの人は、つのめだった世相につかれて生活のうちにせめて寸刻のやわらぎを求めています。あつい夏の朝、新聞をあければ、今日も・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・の評論集に書かれた内容、書かれざる内容をもたらしている八年の歳月は、プロレタリア文学運動が挫かれてのちの日本現代文学が、戦争の拡大と強行の政策に押しまくられて、爪先さがりにとめどもなく、ファシズムへの屈従に追いこまれて行った時代であった。歴・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・パストゥールが、科学の示した真実についてどこまでも譲歩せず屈従せず其の真実性を守ったことから人類への福祉はもたらされたのだし、感動的な美がその物語のうちに生じたのであって、万一あれがクリスチャン・サイエンスの映画であったら、何の美しさや感動・・・ 宮本百合子 「科学の精神を」
・・・そういう今日の共感に交えてデスデモーナのオセロにたいする封建的な屈従と畏怖とが、大切な愛をおどおどとさせ、才覚とほんとうの正直さとを失わせ、一枚のハンカチーフを種にイヤゴーの奸策につけ入らせた。そのルネッサンス女性の暗愚さは、ソヴェトの若い・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・ つい一年ばかり前はあのような屈従を強いられていた日本の全女性が、各方面でこのような進出を開始したのは何故でしょうか。これは決して日本の民主化がバラの咲いている道であるからではありません。全く反対に、容赦ない苦しみと矛盾にみちた生活の現・・・ 宮本百合子 「国際民婦連へのメッセージ」
出典:青空文庫