・・・門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的な憂鬱・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、それは、文字通り時々で、どちらかと云えば、明日の暮しを考える屈託と、そう云う屈託を抑圧しようとする、あてどのない不愉快な感情とに心を奪われて、いじらしい鼠の姿も眼にはいらない事が多い。 その上、この頃は、年の加減と、体の具合が悪いの・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ ◇ 或年の春、僕は原稿の出来ぬことに少からず屈託していた。滝田君はその時僕のために谷崎潤一郎君の原稿を示し、(それは実際苦心の痕の歴々大いに僕を激励した。僕はこのために勇気を得てどうにかこうにか書き上げる事が出来た。・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎君」
・・・ 佐藤をはじめ彼れの軽蔑し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を搾取られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした屈托もしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。 ねえ。 先刻もいう通り、私の死んでしまった方が阿母のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。 実際私は、貴女・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のお傍はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可ません。急いで電車で帰りましょう。早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可い。お蔦 ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・おとよさんももちろん人をばかにするなどの悪気があってした事ではないけれど、つまりおとよさんがみんなの気合いにかまわず、自分一人の秘密にばかり屈託していたから、みんなとの統一を得られなかったのだ。いつでも非常なよい声で唄をうたって、随所の一団・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・胸に屈託のあるそぶりはほとんど見えない。近所隣へいった時、たまに省作の噂など出たとておとよは色も動かしやしない。かえっておとよさんは薄情だねいなど蔭言を聞くくらいであった。それゆえおとよが家に帰って二月たたないうちに、省作に対するおとよの噂・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ その当座は犬の事ばかりに屈托して、得意の人生論や下層研究も余り口に出なかった。あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・私と同じようにおおかた午の糧に屈托しているのだろう。船虫が石垣の間を出たり入ったりしている。 河岸倉の庇の下に屋台店が出ている。竹輪に浅蜊貝といったような物を種にして、大阪風の切鮨を売っている。一銭に四片というのを、私は六片食って、何の・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫