・・・ 僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。僕はかれこれ十年前にもこう云う家に暮らしていた。しかし或事・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・私としては、私が妻を愛している事を否定されるより、どのくらい屈辱に価するかわかりません。しかも世間は、一歩を進めて、私の妻の貞操をさえ疑いつつあるのでございます。―― 私は感情の激昂に駆られて、思わず筆を岐路に入れたようでございます。・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・今日の文人の見識としてはさもあろうが、今から四十年前――あるいは今日でもなお――俳優が大臣のお伴をするは社会の実情上決して屈辱ではなかった。かつ、井侯は団十郎をお伴につれていても芸術に対する理解があったは、それまで匹夫匹婦の娯楽であって士太・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・それが彼の醜悪と屈辱の過去の記憶を、浄化するであろうと、彼は信じたのであった。彼は自分のことを、「空想と現実との惨ましき戦いをたたかう勇士ではあるまいか」と、思ったりした。そして今や現実の世界を遠く脚下に征服して、おもむろに宇宙人生の大理法・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 彼は、屈辱と憤怒に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵をかえした。 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・るべき魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶えしていた。 けれども、お巡りは、朗かだった。「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでこと・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・言っているうちに、わけのわからぬ、ひどい屈辱を感じて来た。失敬なやつだ。僕を遊び仲間にしようとしている。おまえなんかに、たのしまれてたまるものか。すっと立ちあがって、ひとりさっさと資生堂を出た。とみは落ちついて、母のような微笑で、そのうしろ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・フロオベエルはおのれの処女作、聖アントワンヌの誘惑に対する不評判の屈辱をそそごうとして、一生を棒にふった。所謂刳磔の苦労をして、一作、一作を書き終えるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうずき、痛み、彼の心の満たされぬ空洞が・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫