・・・ふくらんだ蕾を持った、紅味のある枝へは、手が届く。表門の柵のところはアカシヤが植えてあって、その辺には小使の音吉が腰を曲めながら、庭を掃いていた。一里も二里もあるところから通うという近在の生徒などは草鞋穿でやって来た。 まだ時が早くて、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・こうした報告が社の会計から、すでに私の手もとへ届くようになった。 私も実は、次郎と三郎とに等分に金を分けることには、すでに腹をきめていた。ただ太郎と末子との分け方をどうしたものか。娘のほうにはいくらか薄くしても、長男に厚くしたものか。そ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ しかしこんなことは畢竟ずるに私の知識の届く限りで造り上げた仮の人生観たるに過ぎない。これがわかったために私の実行的生活が変動するわけでも何でもない。のみならず現にその知識みずからが、まだこの上幾らでも難解の疑問を提出して休まない。自己・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・手を延ばすなら、藤さんの膝にかろうじて届くのである。水は薄黒く濁っていれど、藤さんの翳す袂の色を宿している。自分の姿は黒く写って、松の幹の影に切られる。「また浮きますよ」と藤さんがいう。指すところをじっと見守っていると、底の水苔を味噌汁・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・の分数をはかりとり、榻に坐ったまま板縁の地図へずっと手をさしのばして、そのこまかく図してあるところより蜘蛛の網のように画かれた線路をたずねながら、かなたこなたへコンパスを歩かせているうちに、手のやっと届くようなところへいって、ここであろう、・・・ 太宰治 「地球図」
・・・またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので、それに手の届くように鞭撻された受験者はやっと数時間だけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘れて再び取りかえす事はない。それを忘れてしまえば厄介な記憶の訓練の効果は消えてしま・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・親鳥だと、単にちょっと逆立ちをしてしっぽを天に朝しさえすればくちばしが自然に池底に届くのであるが、ひな鳥はこうして全身を没してもぐらないと目的を達しないから、その自然の要求からこうした芸当をするのであろうが、それにしても、水中にもぐっている・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・私アその頃籍が元町の兄貴の内にあったもんだから、そこから然う言って電報が此処へ届く。どうも様子が能く解らねえ。けど、その晩はもう遅くもあるし、さアと云って出かけることもならねえもんだから、明朝仕事を休んで一番で立って行った。 それア鄭重・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一抱え二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でその大さも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ニイチェの深さは地獄に達し、ニイチェの高さは天に届く。いかなる人の自負心をもつてしても、十九世紀以来の地上で、ニイチェと競争することは絶望である。 ニイチェの著書は、しかしその難解のことに於て、全く我々読者を悩ませる。特に「ツァラトスト・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫