・・・ 八 岸をトンと盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思うほど、玉野は思ったより巧に棹をさす。大池は静である。舷の朱欄干に、指を組んで、頬杖ついた、紫玉の胡粉のような肱の下に、萌黄に藍を交えた鳥の翼の揺・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・屋根船屋形船は宵の中のもので、しかも左様いう船でも仕立てようという人は春でも秋でも花でも月でもかまうことは無い、酒だ妓だ花牌だみえだと魂を使われて居る手合が多いのだから、大川の夜景などを賞しそうにも無い訳だ。まして川霧の下を筏の火が淡く燃え・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・その頃高知から種崎まで行くのには乗合の屋形船で潮時でも悪いと三、四時間もかかったような気がする。現在の東京の子供なら静岡か浜松か軽井沢へでも行っていたのと相当する訳である。交通速度の標準が変ると距離の尺度と時間の尺度とがまるきり喰いちがって・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・たとえば、私が鮓を食うときにその箸にかび臭いにおいがあると、きっと屋形船に乗って高知の浦戸湾に浮かんでいる自分を連想する。もちろんこれは昔そういう場所でそういう箸で鮓を食った事があるには相違ないが、何ゆえにそういう一見些細なことがそれほど強・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫