・・・「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当にあるあの交番まで駈けつけてその由を告げました……」「その女・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・「大友なら宿は大東館だ」「何故?」「僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだもの。」「それは面白い。」「きっと面白い。」 と話しながら石の門を入ると、庭樹の間から見える縁先に十四五の少女が立っていて、甲乙の・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃函館に着き、直ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築半ばなれども室広く器物清くして待遇あしからず、いと心地よし。 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列び・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 龍介は図書館にいるTを訪ねてみようと思った。汽車がプラットフォームに入ってきた。振り返ってみると、停っている列車の後の二、三台が家並の端から見えた。彼はもどろうか、と瞬間思った。定期券を持っていたからこれから走って間に合うかもしれなか・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・北村君は又芝公園へ移ったが、其処は紅葉館の裏手に方る処で、土地が高く樹木が欝蒼とした具合が、北村君の性質によく協ったという事は、書いたものの中にも出ている。あの芝公園の家は余程気に入ったものと見えて、彼処で書いたものの中には、懐しみの多いも・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・「おきて往なんせ、東が白む。館々の鶏が啼く」と丘を下りてしまうと、歌うのは角の豆腐屋のお仙である。すべてこの島の女はよく唄を歌う。機を織るにも畠を打つにも、舟を漕ぐにも馬を曳くにも、働く時にはいつも歌う。朝から晩まで歌っている。行くとこ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。映画館を出てからは、急に尊大に、むっと不気嫌になって、みちみち一言も口・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・活動館へはいって、そこでは荒城の月という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵が映されて、小供の唱歌が聞えて来た。嘉七は、それに泣かされた。「恋人どうしはね、」嘉七は暗闇のなかで笑いながら妻に話しかけた。「こうして活動を見てい・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・朝応用美術品陳列館へ行った。それから水族館へ行って両棲動物を見た。ラインゴルドで午食をして、ヨスチイで珈琲を飲んで、なんにするという思案もなく、赤い薔薇のブケエを買って、その外にも鹿の角を二組、コブレンツの名所絵のある画葉書を百枚買った。そ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫