・・・朝の光を帯びた、淡い煙のような雲も山巓のところに浮んでいた。都会から疲れて来た高瀬には、山そのものが先ず活気と刺激とを与えてくれた。彼は清い鋭い山の空気を饑えた肺の底までも呼吸した。 塾で新学年の稽古が始まる日には、高瀬は知らない人達に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 由子は遠く山巓に湧き出した白雲を見ながら、静かに心の中で愛する紅玉色の硝子玉を撫で廻した。 後 記この一篇を書き終った時、私の胸は別れて久しいお千代ちゃんの懐かしさで一杯であった。我が小さく拙い毛の指環よ。ひろい世の中・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫