・・・何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて葎のように延びた。雨のため傷められたに相異ないと、長雨のただ一・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・坂に、一本の山桜があって、枝が垂れてじいさんの頭の上にまで伸びていました。 今年の葉は、もう散って、枝は裸になっていたけれど、葉の落ちたあとには、来年咲く花のつぼみが、堅く見えていました。じいさんは、それを見ると、花が咲くまでに、すさま・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・屋台の裏にも山桜の大木三本有之、微風吹き来る度毎に、おびただしく花びらこぼれ飛び散り、落花繽紛として屋台の内部にまで吹き込み、意気さかんの弓術修行者は酔わじと欲するもかなわぬ風情、御賢察のほど願上候。然るに、ここに突如として、いまわしき邪魔・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・塔の沢あたりからはぽつぽつ桜が見え出した。山桜もあるが、東京辺のとは少し違った種類の桜もあるらしい。関東地震や北伊豆地震のときに崩れ損じたらしい創痕が到る処の山腹に今でもまだ生ま生ましく残っていて何となく痛々しい。 宮の下で下りて少時待・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・と源さんが山桜の煙を口から吹き出しながら賛成する。「神経って者は源さんどこにあるんだろう」と由公はランプのホヤを拭きながら真面目に質問する。「神経か、神経は御めえ方々にあらあな」と源さんの答弁は少々漠然としている。 白暖簾の懸っ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・子供の遊ぶ部屋の前には大きい半分埋まった石、その石をかくすように穂を出した薄、よく鉄砲虫退治に泥をこねたような薬をつけられていた沢山の楓、幾本もの椿、また山桜、青桐が王のように聳えている。畑にだって台所の傍にだって木のないところなど一つもな・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
出典:青空文庫