・・・……まだ夜の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮の場所で、かすみを張って囮を揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾上を、ぱっとこちらの山の端へ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占め・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・この蔭より山道をのぼる。狭き土間、貧しき卓子に向って腰掛けたる人形使――辺栗藤次、鼻の下を横撫をしながら言う。うしろ向のままなり。人形使 お旦那――お旦那――もう一杯注いで下せえ。万屋 何もね、旦那にの字には及ばないが、親仁・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 修羅闘一場を現出す 死後の座は金きんかんたんを分ち 生前の手は紫鴛鴦を繍ふ月げつちん秋水珠を留める涙 花は落ちて春山土亦香ばし 非命須らく薄命に非ざるを知るべし 夜台長く有情郎に伴ふ 犬山道節火遁の術は奇にして蹤尋ねかたし・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ さらばじゃと、大袈裟な身振りを残すと、あっという間に佐助は駈けだして、その夜のうちに、鳥居峠の四里の山道を登って、やがて除夜の鐘の音も届かぬ山奥の洞窟の中に身を隠してしまった。 こうして、下界との一切の交通を絶ってしまった佐助・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・三里はとっくに歩いたと思っているのにいくらしてもおしまいにならなかった山道や、谿のなかに発電所が見えはじめ、しばらくすると谿の底を提灯が二つ三つ閑かな夜の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女のようなそんな人は、どう致しまして有るわけのものではありません。それでは馬琴が描いた小説中の人物は当時の実社会とはまるで交渉が無いかというと、前・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・一年あまりも心の暗い旅をつづけて、諸国の町々や、港や、海岸や、それから知らない山道などを草臥れるほど歩き廻った足だ。貧しい母を養おうとして、僅かな銭取のために毎日二里ほどずつも東京の市街の中を歩いて通ったこともある足だ。兄や叔父の入った未決・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・ 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。「もう店しまうべえ」 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」 日が暮れかけると山は風の音ば・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・ 芥川竜之介の小品に次のような例がある。 山道のトロッコにうっかり乗った子供が遠くまではこばれた後に車から降ろされただ一人取り残されて急に心細くなり、夢中になって家路をさしていっさんに駆け出す。泣きだしそうにはなるが一生懸命だから思・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そこから吉浜まで海岸の雨の山道を、験潮器を背負って、苫をかぶってあるいていると、ホトトギスが啼いた。根白というところで煙草を買おうと思ったが、巻莨はおろか刻煙草もない。宿屋の親爺ののみしろを一服めぐんでもらったので、喜んで吸ってみると、それ・・・ 寺田寅彦 「夏」
出典:青空文庫