・・・――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。 日本人の労働者は単に日・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・お君さんにとって田中君は、宝窟の扉を開くべき秘密の呪文を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・この公園のずッと奥に、真暗な巌窟の中に、一ヶ処清水の湧く井戸がござります。古色の夥しい青銅の竜が蟠って、井桁に蓋をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、霊沢金水と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。こ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽、漬もの桶などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲くのと同一であった。「――涙もこれだ。」 と教授は思わず苦笑して、「しかし・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のようになった低地の所謂細民窟附近を捜して見ようと思って、通りかゝったのであった。両側の塀の中からは蝉やあぶらやみんみ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊からず平かならず、誰が造りしともなく自然と里人が踏みならせ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「そうお決めになったらどうです。そうすれば荷物を取りにやりますから」「そうしてもいいが、温泉へ行くとしたらどこだろう」「ごく近いところで、深谷もこのごろはなかなかいいですよ」「石屋ならいい座敷がありますけれど、あすこも割に安・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・余のごとき頭脳不透明なるものは理窟を承わるより結論だけ呑み込んで置く方が簡便である。「ああ、つまりそこへ帰着するのさ。それにこの本にも例が沢山あるがね、その内でロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。な・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・筋がなければ文章にならんと云うのは窮窟に世の中を見過ぎた話しである。――今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいるところをもって見ると公然と無筋を標榜せぬ・・・ 夏目漱石 「写生文」
出典:青空文庫