・・・それは誰か麦の間を歩いている音としか思われなかった、しかし事実は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩れる音らしかった。 その内に八時の上り列車は長い汽笛を鳴らしながら、余り速力を早めずに堤の上を通り越した。保吉の捉える下り列車はこ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・するとその大川の上にどっと何かの雪崩れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清の桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろの噂が伝わりだした。しかし事実は木橋だった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・が、そこいらは打寄せる波が崩れるところなので、二人はもろともに幾度も白い泡の渦巻の中に姿を隠しました。やがて若者は這うようにして波打際にたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は有頂天になってそこまで飛んで・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭る、……体の重量が、他愛ない、暖簾の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏の上から触っても知れた。 げっそり懐手をしてちょいとも出さない、す・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。崩れるとなったら、早いものでした。ふっと気のついた朝には、すっからかん。きれい、さっぱり。可笑しいようですよ。父は、みんなに面目ないのですね。そうなっても、まだ見栄張・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・夜光虫は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるようにへたへたと部屋の隅に寝そべった。「かんにんして呉れよ。僕は疲れているんだ」 すぐつづいて太宰が障子をあけてのっそりあらわれた。ひとめ見て、私はあわてふためいて眼をそらした。これはい・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・のドアをあけたとたんに、わっと笑い崩れる少女たちの声が聞えた。私はどぎまぎして了った。ひらっと私の前に現れたのが、昨日の断髪の少女であった。少女は眼をくるっと丸くして言った。「いらっしゃいまし。」 少女の瞳のなかに、なんの侮蔑も感じ・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・学まで、思うさえ背すじに冷水はしるほど、気恥ずかしき行為と考えていましたところ、このごろは、白き花一輪にさえほっと救いを感じ、わが、こいこがれる胸の思いに、気も遠くなり、世界がしんとなって、砂が音なく崩れるように私の命も消えてゆきそうで、ど・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・(崩れるように、砂の上にあぐらを掻ああ、頭が痛い。切腹だ。切腹をして死んでしまうんだ。 ふざけている時ではございません。菊代さんを、あなたは、どうなさるおつもりです。 どうもこうも出来やしねえ。ああ、頭が痛い。負けたんだよ、僕たちは・・・ 太宰治 「春の枯葉」
出典:青空文庫