・・・ 老人の左腕を引っぱっている上等兵が、うしろへ向いて云った。「なあに、こんな百姓爺さんが偽札なんぞようこしらえるもんか! 何かの間違いだ。」 老人は、白樺の下までつれて行かれると、穴の方に向いて立たせられた。あとから来た通訳が朝・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・私は立ち上って食堂から飛び出し、二、三歩追って、すぐに佐伯の左腕をとらえた。そのまま、ずるずる引きずって食堂へはいった。こんな奴に、ばかにされてたまるか、という野蛮な、動物的な格闘意識が勃然と目ざめ、とかく怯弱な私を、そんなにも敏捷に、ほと・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・馬場はときたま、てかてか黒く光るヴァイオリンケエスを左腕にかかえて持って歩いていることがあるけれども、ケエスの中にはつねに一物もはいっていないのである。彼の言葉に依れば、彼のケエスそれ自体が現代のサンボルだ、中はうそ寒くからっぽであるという・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 姉の左腕の傷はまだ糸が抜けず、左腕を白布で首に吊っている。義兄は、相変らず酔っていて、「おもて沙汰にしたくねえので、きょうまであちこち心当りを捜していたのが、わるかった。」 姉はただもう涙を流し、若い者の阿呆らしい色恋も、ばか・・・ 太宰治 「犯人」
・・・壁塗り左官のかけ梯子より落ちしものの左腕の肉、煮て食いし話、一看守の語るところ、信ずべきふし在り。再び、かの、ひらひらの金魚を思う。「人権」なる言葉を思い出す。ここの患者すべて、人の資格はがれ落されている。 われら生き伸びて・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ すっきりとした初夏の服装で、大きめのハンド・バッグを左腕にかけ、婦人兵士の最後の列の閲兵を終ろうとしている王女エリザベスの目の下に、一人の婦人兵士が直立不動で立っていたその地点から足をはなさないまま、失神して仰向けに倒れている。白手袋・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・ その左腕を内側にまわしていかにも力強く群集をその下に抱きかかえているように、又右腕の拳はぐっと前につき出して、敢て彼を侵さんとする者は何人たりとも来ってこの刑具――拳を受けよ! という風な英雄像に彫り上げられた一塊の石にしかすぎぬもの・・・ 宮本百合子 「春桃」
出典:青空文庫