・・・わたくしは桜花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂糸桜を推して第一とする。 谷中天王寺は明治七年以後東京市の墓地となった事は説くに及ぶまい。墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦・・・ 永井荷風 「上野」
・・・「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧みなものだね」「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・事は新発明新工夫に非ず。成功の時機正に熟するものなり。一 言葉を慎みて多すべからず。仮にも人を誹り偽を言べからず。人の謗を聞ことあらば心に納て人に伝へ語べからず。譏を言伝ふるより、親類とも間悪敷なり、家の内治らず。 ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そしてその目的を遂げるために、財界の老錬家のような辣腕を揮って、巧みに自家の資産と芸能との遣繰をしている。昔は文士を bohm だなんと云ったものだが、今の流行にはもうそんな物は無い。文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・蕪村は巧みにこれを用い、ことに中七音のうちに簡単なる形容を用うることに長じたり。水の粉やあるじかしこき後家の君尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜柚の花や能酒蔵す塀の内手燭して善き蒲団出す夜寒かな緑子の頭巾眉深きいとほしみ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「いいえ、私はエステル工学校の卒業生です。」「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一杯やりましょう。チュウリップの光の酒。さあ飲みませんか。」「いや、やりましょう。よう、あなたの健康を祝します。」「よう、ご健康・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・そこへ巧みにつけ入って、ドイツ民族の優秀なことや、将来の世界覇権の夢想や、生産の復興を描き出したヒトラー運動は、地主や軍人の古手、急に零落した保守的な中流人の心をつかんで、しだいに勢力をえ、せっかくドイツ帝政の崩壊後にできたワイマール憲法を・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・かれは糸の切れっ端を拾い上げて、そして丁寧に巻こうとする時、馬具匠のマランダンがその門口に立ってこちらを見ているのに気がついた。この二人はかつてある跛人の事でけんかをしたことがあるので今日までも互いに恨みを含んで怒り合っていた。アウシュコル・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町の一向宗の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫