・・・ 手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋しく顔を見合せた、トタンに跫音、続いて跫音、夫人は衝と退いて小さな咳。 さそくに後・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ お通はこれが答をせで、懐中に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手を差伸し、身近に行燈を引寄せつつ、眼を定めて読みおろしぬ。 文字は蓋し左のごときものにてありし。お通に申残し参らせ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・外套のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼を閉じつ。 この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出で口笛鋭く吹きつつ大股に歩みて野の方に向かい、おりおり空を仰ぎては眉をひそめぬ。空は雲の脚はやく、絶え間絶え間には蒼空の高・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 大尉は黒い袴の中へ両手を差入れながら笑った。 その日、高瀬は始めて広岡理学士に紹介された。上田町から汽車で通って来るという。高瀬から見れば親と子ほども年の違った学者だ。「高瀬さんは三年という御約束で、私共の塾へ来て下さいました・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・折から、友人が、日本詩歌のリズムを心理学的な実験によって研究した本を差入れてくれた。東京帝大の心理学実験室でなされたこの仕事は、題目としては過去において七五調が永年日本人にしたしまれて来たその心理学的根拠をしらべたものであった。私はだんだん・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・ 獄中で死んだ国領五一郎氏のために、またその他の同志のために、無言で何年も何年も差入れその他の世話をして来た一人の女性を知っている。その婦人はそういう親切を咎められて検挙もされた。今日そのひとは、どんな記念賞の晴れ役にもならず混雑した室・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・ 差入れの本は、いたって無秩序にしか入れられないですみませんが、こちらもこの頃段々様子がわかって来ましたから次第に工合よくなると思います。 この間の世界地図は、ひどいのでしたが、無きには増しと存じ、いまにもっとましなのを買ったらとり・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・[自注3]心苦しく思います――一年二ヵ月ぶりに面会して、宮本への差入れ状態が非常にわるかったことがわかった。一月三十日に中條の父が死去したとき、顕治は弔電をうつ金さえもっていなかった。百合子が市ヶ谷の女囚の面会所で家のものに会うたびに、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・さらに、われわれがゆく前には運動すらも、監獄法によって所定されている運動すらも、人手がないというので絶対に許されておらない、しかも外部からの面会、差入れは絶対に禁止されていた。」このことは、おそらく被告たちが六法全書さえ読むことができなかっ・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・主人の背後には、差入れをたのまれた書籍類が数冊ずつ細い紐でしばっておいてある。 この差入屋の店へ私はあとから入って来たので、今主人が応待しているのは若い女のひとであった。若い女のひとはすっかりよそ行きの化粧と盛装で、白いショールをはずし・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫