・・・そしてある室の入口に控えていた同じような制服の役人に傍聴券を差し出して、それでもういいのかと思っていると、まだ必要な手続が完了していなかったと見えてそこへはいる事を許されない。それで再びまた同じ階段を下りて、方角のわからぬ廊下をぐるぐる廻っ・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ 槍の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜と挿毛のさと靡くあとに、残るは漠々たる塵のみ。 ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこ・・・ 夏目漱石 「博士問題の成行」
・・・それより山男、酒屋半之助方へ参り、五合入程の瓢箪を差出し、この中に清酒一斗お入れなされたくと申し候。半之助方小僧、身ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候処、山男、まずは入れなさるべく候と押して申し候。半之助も顔色青ざめ委細承知・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・皿の上のテジマアは落ちついてにゅうと顔を差し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはね下りて、自分が椅子にどっかり座りそれから床の上に倒れている若ばけものを、雑作・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ 三日の夕方、東交代表河野争議部長が、下唇を突出し気味に背中を堅くして椅子にかけている山下局長に向って整理案撤回要求書を差し出しているところを撮った写真が出た。でっぷり太った角がりでチョビ髭を生やした河野が詰襟服姿で起立し、要求書の両端・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
豊太閤が朝鮮を攻めてから、朝鮮と日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智が徳川家の旨を承けて肝いりをして、慶長九年の暮れに、松雲孫、文※の国書は江戸へ差し出した。次は上々官金僉知、朴僉知、喬僉知の三人で、これは・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・おれが手ずから本磨ぎに磨ぎ上げた南部鉄の矢の根を五十筋、おのおのへ二十五筋、のう門出の祝いと差し出して、忍藻聞けよ――『二方の中のどなたでも前櫓で敵を引き受けなさるならこの矢の根に鼻油引いて、兜の金具の目ぼしいを附けおるを打ち止めなされよ。・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・が、二階の女の子のことを思い出すと彼は箸を置いて口を母親の方へ差し出した。「何によ。」と母は訊いて灸の口を眺めていた。「御飯。」「まア、この子ってば!」「御飯よう。」「そこにあなたのがあるじゃありませんか。」 母はひ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ 安次はまた三尺から紙幣を出すと近寄って来た勘次にそれを差し出した。「お前これ持ってくれんかのう。二円五十銭あるのやが、何んぞの足しになるやろぜ。」「自分で持ってりゃええやないか。」「こんなもの、五月蠅うてしょうがないが。」・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫