・・・現にこの前の日曜などにはあらかた市中を歩いて見ました。けれどもたまに明いていたと思うと、ちゃんともう約定済みになっているんですからね。」「僕の方じゃいけないですか? 毎日学校へ通うのに汽車へ乗るのさえかまわなければ。」「あなたの方じ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・実によき水ぞ、市中にはまた類あらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその味これと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか掬ばんに、わが心地いかならむ。忘る・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗に行届きおれども、そこら煤ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地なり。 園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地に接し、李・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 今から、二十年ばかり前までは、市中には、まだ電車も、自動車もなかったといっていゝ。ただ馬車や、人力車が交通するにすぎなかった。だから、歩行するのに、さまで神経を労しなかった。一里や二里位の路を往復することは、なんでもなかった。しかし、・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・のみならず、そこには大きな建物が並んで、烟が空にみなぎっているばかりでなく、鉄工場からは響きが起こってきて、電線はくもの巣のように張られ、電車は市中を縦横に走っていました。 この有り様を見ると、あまりの驚きに、少年は声をたてることもでき・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・こんどは他人より手ひどく攻撃されるという、廻合せの皮肉さに、すこしは苦笑する余裕があっても良かりそうなものだのに、お前はそんな余裕は耳掻きですくう程も無く、すっかり逆上してしまって、自身まで出向いて、市中の書店を駈けずりまわり、古本屋まで買・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 大家の主婦に留守を頼んで信子も市中を歩いた。 三 ある日、空は早春を告げ知らせるような大雪を降らした。 朝、寝床のなかで行一は雪解の滴がトタン屋根を忙しくたたくのを聞いた。 窓の戸を繰ると、あらたかな日・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ ある日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪を登った。「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。 富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被われ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見え・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 彼は刑場におもむく前、鎌倉の市中を馬に乗せられて、引き回されたとき、若宮八幡宮の社前にかかるや、馬をとめて、八幡大菩薩に呼びかけて権威にみちた、神がかりとしか思えない寓諫を発した。「如何に八幡大菩薩はまことの神か」とそれは始まる。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫