・・・ その日その日に忘れられて行く市井の事物を傍観して、走馬燈でも見るような興味を催すのは、都会に生れたものの通有する性癖であろう。されば古老の随筆にして行賈の風俗を記載せざるものは稀であるが、その中に就いて、曳尾庵がわが衣の如き、小川顕道・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・西鶴は市井の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ 凡物にして進化の経程を有せざるはない。市井の風俗を観察する方法にも同じく進化の道がある。江戸時代に在っては山東京伝は吉原妓楼の風俗の家毎に差別のあった事を仔細に観察して数種の蒟蒻本を著した。傾城買四十八手傾城※入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、・・・ 永井荷風 「申訳」
白魚、都鳥、火事、喧嘩、さては富士筑波の眺めとともに夕立もまた東都名物の一つなり。 浮世絵に夕立を描けるもの甚多し。いずれも市井の特色を描出して興趣津々たるが中に鍬形くわがたけいさいが祭礼の図に、若衆大勢夕立にあいて花・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・ 小学校の教師は、官の命をもって職に任ずれども、給料は町年寄の手より出ずるがゆえに、その実は官員にあらず、市井に属する者なり。給料は、区の大小、生徒の多寡によりて一様ならず。多き者は一月金十二、三両、少き者は三、四両。官員にて中小学校に・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・ しかしながら、散文精神の発足にやはり時代のかげが落ちていて、芸術が現実へ働きかけてゆく面からそれが云われず、どちらかと云うと、現実の反映としての小説をより見たことは、散文精神が、市井風俗小説を多産するに至ったことで裏づけられている。・・・ 宮本百合子 「現実と文学」
・・・一ひら 一ひら、お前を、市井の文具店の蔵から迎えよせ私の周囲には、次第に多くのまといが出来た。それ等の声に耳を傾け私も亦 人に洩れぬ 私語で 物語り見えぬ友情絶ち難い 愛が 二人の胸を繋ぐ。私は、此一・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・畢竟バルザックは当時一風潮としてきざしはじめた人生批判なき市井生活の風俗小説の傾向によって読まれたにすぎず、ドストイェフスキーは不幸な再登場によって文学そのものの発展を混乱させている心理主義の趣好者を満足させたに過ぎなかった。 この期間・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・この二人の作家の時代的な本質については、後にやや詳しく触れることとして、当時のこのような心理は、他の角度に於て武田麟太郎の市井小説の提案を生む動機となった。『人民文庫』による、武田麟太郎は、西鶴が市井生活のリアルな描写をとおして十八世紀日本・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・随筆集の一つを『市井にありて』と名づけている藤村の気持ちのうちには、その好みが動いているように思われる。市井にある庶民の一人としての住居にふさわしい、ささやかな、目だたない、質素な家に住むことを、藤村は欲したのであろう。しかしそういう住居の・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫