・・・これを聞いている間は、何だか己の性命が暖かく面白く昔に帰るような。そして今まで燃えた事のある甘い焔が悉く再生して凝り固った上皮を解かしてしまって燃え立つようだ。この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項を押屈め・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・御酒そなへおく設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆくことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる汁食とすすめめぐりてとぼしたる火もきえぬべく人突あたる戸をあけて還る人々雪しろくたまれりといひてわびわび・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 僕もそこで母が家へ帰るまで田打ちをして助けた。 けれども父はまだ帰って来ない。五月十四日、昨夜父が晩く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向うのことを聞いたことを云った。祖母の云う・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・私たちに、もし帰る家庭があるならば、それこそ私たち自身の社会的な努力によってその構造を辛くも守りたてて来ているからではないだろうか。戦争中、女はあんなに働かされた。働かされ、又働き、そしてその働きによってこそ、疲れて夕刻に戻る家路を保って来・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午まで起きはしません。町でも家は大抵戸を締めて、ひっそりしています。まあ、クリスマスにお祭らしい事はしてしまって、新年の方はお留守になっているようなわけです」と云う。「でもお上のお儀式・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣の色を表してひとり自分の寝室へ戻って来た。だが彼はこの大遠征の計画の裏に、絶えず自分のルイザに対する弱い歓心が潜んでいたのを考えた。殊にそのため部下の諸将と争わなければならなかったこの夜の会議の終局を・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・古びた自転車に乗って、郵便局から郵便物を受け取って帰る事もある。 エルリングの体は筋肉が善く発達している。その幅の広い両肩の上には、哲学者のような頭が乗っている。たっぷりある、半明色の髪に少し白髪が交って、波を打って、立派な額を囲んでい・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・彼らが浜から家へ帰る。そこにはもう貴さはない。彼らは波と戦って勇ましく打ち克つ。しかし敵手が人間になり、さらに自分の心になると、彼らはもう立派な戦士ではない。彼らの活動は真生の面影を暗示する。しかしそれは彼ら自身の生活ではなかった。彼らは低・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫