・・・事務室のまん中の大机には白い大掛児を着た支那人が二人、差し向かいに帳簿を検らべている。一人はまだ二十前後であろう。もう一人はやや黄ばみかけた、長い口髭をはやしている。 そのうちに二十前後の支那人は帳簿へペンを走らせながら、目も挙げずに彼・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・あの主計官は忙しそうにあちらの帳簿を開いたり、こちらの書類を拡げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給ですね」と一言云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 食事が済むと煙草を燻らす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。 監督は一抱えもありそうな書類をそこに・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「もっとも今も話したようなわけで、破産騒ぎまでしたあげくだから、取引店の方から帳簿まで監督されてる始末なんで、場合が場合だから、二階へ兄さんたちを置いてるとなると小面倒なことを言うかもしれませんが、しかしそれとてもたいしたことではないん・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。 堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・「イヤ帳簿の調査もあるからお前先へ寝ておくれ」と言って自分は八畳の間に入り机に向った。然し妻は容易に寝そうもないので、「早くお寝みというに」 自分はこれまで、これほど角のある言葉すら妻に向って発したことはないのである。妻は不審そ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・サアそれもチャンと返して帳簿を整理しておかんと今のうまい口に行く事ができない。そこでこの四五日その十五円の調達にずいぶん駆け回りましたよ。やっと三十間堀の野口という旧友の倅が、返済の道さえ立てば貸してやろうという事になり、きょう四時から五時・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ 電燈がついてから、看護長が脇の下に帳簿をはさんで、にこ/\しながら這入って来た。その笑い方は、ぴりッとこっちの直観に触れるものがあった。看護長は、帳簿を拡げ、一人一人名前を区切って呼びだした。空虚な返事がつづいた。「ハイ。」「・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髯のばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか? そう言うお巡りのことばには、強い故郷の訛があ・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・私は、こっそり帳場へ行って、このたびの祝宴の出費について、一切を記して在る筈の帳簿をしらべた。帳場の叔父さんの真面目くさった文字で、歌舞の部、誰、誰、と五人の芸者の名前が書き並べられて、謝礼いくら、いくらと、にこりともせず計算されていた。私・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
出典:青空文庫