・・・僕は或は汽車の中から山を焼いている火を見たり、或は又自動車の中から常磐橋界隈の火事を見たりしていた。それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。「今年は家が火事になるかも知れないぜ」「そんな・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ということになり、つれ立って、奥の常磐へあがった。 友人もうすうす聴いていたのか、そこで夏中の事件を問い糺すので、僕はある程度まで実際のところを述べた。それから、吉原へ行こうという友人の発議に、僕もむしゃくしゃ腹を癒すにはよかろうと思っ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 土用近い暑さのところへ汁を三杯も啜ったので、私は全身汗が走り、寝ぼけたような回転を続けている扇風機の風にあたって、むかし千日前の常磐座の舞台で、写真の合間に猛烈な響を立てて回転した二十吋もある大扇風機や、銭湯の天井に仕掛けたぶるんぶる・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・漸次之ニ序グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵屋、曰ク新丸屋、曰ク吉田屋等極メテ美ナリ。自余或ハ小店ト称シ、或ハ五軒ト号ケ、或ハ局ト呼ブ者ノ若キハ曾テ算フルニ遑アラズ。且又茶屋・・・ 永井荷風 「上野」
・・・その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二、三町、むかしは土手の平松とかいった料理屋の跡を、そのままの牛肉屋常磐の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束町二、三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲の寺のあ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・その年正月の下半月、師匠の取席になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった。 毎日午後に、下谷御徒町にいた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・これは東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つである。常磐橋の袂に円い柱が立っている。これに広告を貼り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開けた店の広告、・・・ 森鴎外 「独身」
・・・石田は馬に蹄鉄を打たせに遣ったので、司令部から引掛に、紫川の左岸の狭い道を常磐橋の方へ歩いていると、戦役以来心安くしていた中野という男に逢った。中野の方から声を掛ける。「おい。今日は徒歩かい。」「うむ。鉄を打ちに遣ったのだ。君はどう・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・やがてその新芽がだんだん延びて、常磐樹らしく落ちついた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、落葉樹の若葉は深い緑色に落ちついて、もう色の動きを見せなくなる。そうなるともうすぐに五月雨の季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫