・・・何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰と云う大檀家の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣の胸に、熱の高い子供を抱いたまま、水晶の念珠を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経をすませたとか云う事でした。「しかし・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・また左のみを辿って平然としていることはできない。この二つの道を行き尽くしてこそ充実した人生は味わわれるのではないか。ところがこの二つの道に踏み跨がって、その終わるところまで行き尽くした人がはたしてあるだろうか。五 人は相対界・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・たとえば、卑近な例を挙げてみれば、彼は米琉の新しい揃いの着物を着ていても、帽子はというと何年か前の古物を被って、平然として、いわゆる作家風々として歩き廻っているといった次第なのである。「……それでは君、僕はそういうわけだから、明日の晩は・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流行るというので、ミュルで作って見たのだというのである。あなたが作ったのかと、内心私は彼女の残酷さに舌を巻きながら尋ねて見ると、それは大学の医科の小使が作ってくれたというのであ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという諢名、それは年齢の相違と年寄じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひまが無いのだ。……父は、そう心の中で呟き、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・ キヌ子は鏡に向って腰をおろす。 青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一ぱい。 キヌ子は平然。 かえって、田島は席をはずした。行進 セットの・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ 彼は平然と首肯して、また飲む。 さすがに私も、少しいまいましくなって来た。私には幼少の頃から浪費の悪癖があり、ものを惜しむという感覚は、普通の人に較べてやや鈍いように思っている。けれども、そのウイスキイは、謂わば私の秘蔵のものであ・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・彼の平然と呟くところに依れば、彼がこのようにしばしば服装をかえるわけは、自分についてどんな印象をもひとに与えたくない心からなんだそうである。言い忘れていたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村下連雀にあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て来て遊・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫