・・・楽屋はいつも平穏無事のようである。 踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される。その中には人の意表に出たものが時々見られるのだ。靴磨が女の靴をみがきながら、片足を揚げた短いスカートの下から女の股間を窺・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・一剋である外に欠点はない彼は正直で勤勉でそうして平穏な生涯を継続して来た。殊に瞽女を知ってからというもの彼は彼の感ずる程度に於て歓楽に酔うて居た。二十年の歓楽から急転し彼は備さに其哀愁を味わねばならなくなった。一大惨劇は相尋いで起った。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・世間並みの夫婦として別にひとの注意をひくほどの波瀾もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそれでさしつかえないようにみえるけれども、姉娘の父母はこの二、三年のあいだに、苦々しい思いをたえず陰でなめさせられたのである。そのすべては娘のかた・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。その辺は時間がないから今日はそれより以上申上げる訳に参りません。 私はせっかくのご招待だから今日まかり出て、できるだけ個人の生・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・百千年来蛮勇狼藉の遺風に籠絡せられて、僅に外面の平穏を装うと雖も、蛮風断じて永久の道に非ず。我輩は其所謂女子敗徳の由て来る所の原因を明にして、文明男女の注意を促さんと欲する者なり。又初めに五疾の第五は智恵浅きことなりと記して、末文に至り中に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・家には平穏な寝息、戸外には夜露にぬれた耕地、光の霧のような月光、蛙の声がある。――眠りつかないうちに、「かすかに風が出て来たらしいな」私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・の抒情性には、平穏に巣ごもった男女の恋着のなま暖かさはない。大きく暗くおそろしい嵐がすぎて空ににおやかな虹のかかったとき、再び顔と顔とを見合わせた男女が、互の健闘を慶び、生きていることをよろこび、そのよろこばしさにひとしお愛を燃えたたせる姿・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・然し今まで平穏に自分の囲を取捲いていた生活の調子は崩れてしまうだろう、自分はまるで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない――ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・これは異様な、愕きをともなった感覚であって、まるで風の音もきこえない暖い病室で臥たり、笑ったりしている平穏な自分の内部に折々名状しがたい瞬間となって浮び出て来る。やっぱり腹を切るというのは相当のこと也。○ 手術した晩に、安らかな気持なの・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・ 然しながら、それなら平穏なここがよいかと訊かれたら、私は直ぐ返事する。否だ。この小さな住宅地は隠居所である。私共のような人間の住場所には不適当だ。小さい商売を定った顧客対手にしつつ、その間で金を蓄めようとする小売商人は根性がどうも立派・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
出典:青空文庫