・・・ 小狗の戯にも可懐んだ。幼心に返ったのである。 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒な厚い大な外套の、背腰を屁びりに屈めて、及腰に右の片手を伸しつつ、密と狙って寄った。が、どうしてどうして、小児のよう・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・で通っている醜男の寺田に作ってやる味噌汁の匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふと想い出させるような沁々した幼心のなつかしさだと、一代も一皮剥げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・それから其後また山本町に移ったが、其頃のことで幼心にもうすうす覚えがあるのは、中徒士町に居た時に祖父さんが御歿なりになったこと位のものです。 六歳の時、關雪江先生の御姉様のお千代さんと云う方に就いて手習を始めた。此方のことは佳人伝という・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 都会の遽しさや早老を厭わしく思った時、藤村は心に山を描いた。幼心に髣髴とした山々を。故郷の山を。明治三十二年から三十三年までの一年に編まれた『落梅集』は、実に明らかにこの詩人が、歩み進んで来た成長の道、生活の路を語っている。『若菜・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
・・・ 坐りもしない内からこんなことを云う。「そんなことをおっしゃるもんじゃあありませんよ、私は何でもなくってもはたでそうきめてしまうんですもの」 幼心な光君はまがおになって云いわけをするとそれを又からかって笑いながらからかって居る。・・・ 宮本百合子 「錦木」
出典:青空文庫