・・・の所有者にとつては、あの幾何学公式のやうな書体で書かれた「純粋理性批判」の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違わざるもの幾何あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組は・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・夜 怪異を詠みたるもの、化さうな傘かす寺の時雨かな西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて春雨や人住みて煙壁を洩る 狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたる・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「賄ともで幾何です?」 神さんは「さあ」と躊躇した。「生憎ただ今爺が御邸へまいっていてはっきり分りませんが――賄は一々指図していただくことにしませんと……」 忠一が、「それはそうだろう」といった。「賄は別・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・人間より遙かに敏い瞳と、本能を持った彼等が、幾何、一面の苔の間に落ちたとは云え、自分等の好む、餌の馳走を心付かぬことはあるまい。 真先に屋根から降りる先達は、どの雀がつとめるだろう。 庭へついと、遠い遠い彼方の空の高みから、一羽の小・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・おなかが痛いって寝てるって云うと、幾何いるんだ、十円下さい、十円なんているまいって云うから、今時医者に一遍かかったって五円とられるんですよ、貴方病人を見殺しにするんですかって云うとね、流石のおやじ、事ムの人におい、出してやれってので貰って来・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・予が医学を以て相交わる人は、他は小説家だから与に医学を談ずるには足らないと云い、予が官職を以て相対する人は、他は小説家だから重事を托するには足らないと云って、暗々裡に我進歩を礙げ、我成功を挫いたことは幾何ということを知らない。予は実に副わざ・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・という幾何学的な無季の句をすぐ作った。そして葉山の山の斜面に鳥の迫っていった四月の嘱目だと説明した。高田の鋭く光る眼差が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑な態度で、句会の場数を踏んだ彼の心遣いもよくうかがわれた。「三たび茶を戴く菊の薫りか・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その横は幾何学的な時計屋だ。無数の稜の時計の中で、動いている時計は三時であった。彼は女学校の前で立ち停った。華やかな処女の波が校門から彼を眼がけて溢れ出した。彼は急流に洗われた杭のように突き立って眺めていた。処女の波は彼の胸の前で二つに割れ・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫